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2016.01.17
昨日1月16日(土曜日)は母の四十九日の法要でした。 2016年、最初のブログ更新は昨年末12月3日に95歳で他界した母の四十九日の法要で始まりました。 昨年は6月に次女の乳癌、9月に民ちゃんの腎臓癌と二つの大きな手術が続き私も気分的にブログを更新するような状態ではありませんでした。 そして12月には母親が突然心筋梗塞で何時も通っていたデイケアで突然他界してしまいました。 次女や民ちゃんの手術の結果を見届けて母親が二人の病気を持って行ってくれたのかもしれません。 お陰さまでその後民ちゃんは抗がん剤や放射線の治療の必要もなく、6ケ月に一度検査通院すればいいようで今は普段通りの生活をしています。 次女も、抗がん剤の治療は続いていますがあと2回で抗がん剤治療も終了します。 二人とも発見が早くて不幸中の幸いだったと思いますが母が厭なものは全て持って行ってくれたような気がします。 母は申年で今年96歳になる予定でしたが、昨年中に厭な事は全て持ち去ってくれたのでしょうね。 一昨日、親父と母の故郷(徳島県海部郡)から親父の兄の娘(従姉弟)チーちゃん夫婦が半世紀ぶりに福岡に母の四十九日の法要に来てくれました! 博多駅に新幹線到着が12時34分だったので、迎えに行き、ホテルでチェックイン、直ぐ近くのお寺(東長寺)へ連れて行き親父の納骨堂でお参りし、以前私達が住んでいた荒戸周辺へ行って、大濠公園で食事をし、市内観光をしてもらいました。 ![]() 此の東長寺で母の四十九日の法要は行われました。 今回の四十九日の法要も住職のお経の響きは冴えわたり、方向音痴だった母も迷うことなく親父の元へ行けた事だと思います。 ![]() 大濠公園近くのチャイナガーデンで中華料理を食べて、少し公園を散歩しました。 此のあと、西公園や福岡ヤフオクドームなどを見物し、最後は油山観音とひばり観音に行き福岡市内を見下ろしてもらいました。 ![]() ひばり観音の前からは福岡市内が一望できます! チーちゃん夫婦も大満足で喜んでくれていました、帰りに「喫茶わいわい」でコーヒーを飲み、我が家に到着したのは17時頃でした、18時には千葉の姉も帰ってくるので我が家の仏壇をお参りしてもらい姉が帰ってからは皆でお寿司を食べて昔話に花が咲きました。 21時過ぎにはチーちゃん夫婦も疲れた様子で、ホテルに送って行きました。ホテルは東長寺の直ぐ近くでしたから、翌日は二人とも歩いてこられました。 16日の法要は約1時間納骨堂で住職にお経をあげて頂き、親父一人だった写真も親父の隣にお揃いで新しく母の写真も飾ってあげました!親父も少し寂しさが和らいだ感じでした。 無事に四十九日の法要も終わり、皆で親父の四十九日の時と同じ木曽路で食事をして母や親父の思い出話に花が咲きました! ![]() 四国徳島にも機会を見つけて遊びに行くことを約束して、博多駅までチーちゃん夫婦を見送ってきました。 た! 兄貴の高校時代からの親友Tさん、従姉妹のケイコさん、徳島からのチーちゃん夫婦、有難うございました。 ▲
by shinobueakira
| 2016-01-17 17:05
| 両親の思い出
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2015.12.14
我が家の人気者“おふくろ”が12月3日(木曜日)午後5:55、95歳で大往生しました!! 此の日、朝は何時ものようにデイケアに行って、昼食もしっかり食べて、皆さんと一緒にカラオケで歌を歌ったりして元気だったようです。 午後4:30頃帰り支度をしている時にトイレの順番を待っている時に若い看護師さんに「少し歯が痛いような気がする!」と言って首をぐるりと回した時にそのまま意識が無くなってしまったそうでデイケアの職員さん達もビックリしたようです。 直ぐに救急車の手配をして頂き近くの九州中央病院へ搬送され、私達にも連絡をくれました! 私と民ちゃんは久しぶりの水汲みと寒くなってきたので灯油を買って帰ってきたところでした!携帯に見かけない番号の着信がありました! 普段は登録のない電話はあまり出ないのですが、何故か受信していました! 「デイケアでお母様が意識をなくし、今救急車で九州中央病院へ搬送されているのでそちらに行ってください!!」との事でした! ![]() 病院に到着すると心臓マッサージが続けられていましたが、担当医の説明を聴き此のまままマッサージを続けても回復の見込みはなく、マッサージを止めて頂きました! 母の顔は全く苦しんだ様子が無く、穏やかな優しい顔をしていました。 化粧をして頂き、兄の友人だった方の葬儀社(積善社)へ連絡し、遺体を我が家へ搬送してもらいました。 母の親せきや友人も少なくなっており、子供と孫達だけで家族葬にする事にしました。 和室の仏間には親父の遺牌も写真もあるので身近な家族だけで弔ってあげる事にしました。 4日(土曜日)に通夜を行い、5日が本葬でした。 ![]() ![]() ![]() ![]() 親父は2006年12月1日にこの世を去り、おふくろは2015年12月3日でした。 親父が迎えに来たのでしょうかね?? 弟や姉もおふくろの人生は立派だったし、おふくろ自身も大満足の人生だったと確信しているようです。 自分の子供達や孫達を立派に育て上げ、多くの孫達も小さい頃は皆おふくろの世話になっていました。 この世を去る時はその子供や孫に迷惑をかけず、潔く去ってしまうなんて最後まで人間の生き方を教えてくれたような気がします。 死因は心筋梗塞との事でしたが、ほとんど老衰なのかもしれませんね。 実は10月20日(火曜日) 夕飯時に1階の弟から「おふくろの様子がおかしいので降りて来てくれんね!」との事で下りて行くとソファにぐったりとしているおふくろの姿がありました! 直ぐに救急車の手配をして大きな声でおふくろを呼び起こすとかすかに反応がありました! 救急車の中で意識もはっきりしてきましたが、福岡記念病院へ搬送し、医師の診断を受けたところ、「脳や心臓に異常は見られず、失神のようです!此のまま家に連れて帰れますが・・・どうしますか?」 今晩一日入院させてもらい、少し様子を見せて頂きました。 翌朝早く、弟と民ちゃんと一緒に様子を見に行き元気な様子を確認し、直ぐに退院の手続きをとりました。 このような事がこれからはときどき発生し、老衰で人生を終えるのかなと思いました。 しかし、その後はデイケアにも元気に通い、火曜日と土曜日はデイケアがお休みなので、私の篠笛音楽教室で歌を歌うのが大好きでした! 最近のおふくろの歌唱力はUPし、唄う姿勢も良くなって声も大きく出るようでクリスマスが近づいたので、きよしこの夜やアメージンググレース等にも挑戦していたので、動画に納めたいなっと思っていた矢先でした。 12月1日(火曜日)も1時間半ぐらいずっと歌って喜んでいました、「100歳まで生きられるかもしれんね」と言っていましたが100歳の時は東京オリンピックの年なので盛大にお祝いしたかったのですが少し残念です。 目も耳も足も腰も強く、杖などを使う必要もなく元気で長生きし、ぴんぴんころりと逝ってしまいました! 今年の春、おふくろの糸通しの動画があります! 通夜と告別式ではおふくろの写真と動画を流し、皆でおふくろを偲びました。 このように好きで得意な和栽をする時は全く認知症など感じさせませんでした! 天国でもきっと和歳の好きな方々や歌の好きな方々と一緒に集まっているかもしれませんね。 最後におふくろの唄を残しておきたいと思います! もう少し色々な曲を動画に納めたかったですね!! ▲
by shinobueakira
| 2015-12-14 11:31
| 両親の思い出
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2013.08.11
昨日8月10日は亡き親父の生誕100年記念日でした! 少し痴呆が進んできたおふくろにも説明しながら、娘達も呼んで一緒に手巻き寿司でお祝いをしました! 偶然にもあまり音信のない大阪に住んでいる兄貴から美味しいお漬物がクール宅急便で届きましたので、兄貴にも『今日は皆で親父の生誕100年を祝っているので、お漬物も早速頂きます!』と言う事でおふくろにも久しぶりに電話で話をしてもらいました。 長い間兄貴とは会っていないので、喜んでいたようですが暫くすると、「今のは誰だったかね?」と皆大笑いでした!! 姉にも電話し、皆で親父の話をしながら美味しい手巻きずしを頂きました! ![]() ![]() 娘のスマホの写真を見ながら大喜びのお袋 ![]() 食事の前には篠笛で沢山童謡を演奏してあげると大きな声で歌っていました! 「今日は何の日かね?皆と一緒に美味しいものが食べられて有難いことです!」と喜んでいました。 ![]() ![]() 以西底引き網の漁労長だった親父も大正2年生まれで今年の誕生日で生きていれば100歳ですが、今のおふくろの年93歳で亡くなりました! おふくろに「何歳まで生きられそうかね?」と聞くと「解らん!それでも93歳まで生きられると思ってなかったから100歳まで行くかもしれん!!」と声は元気で食欲も旺盛! 次女から手巻きずしを沢山握ってもらって満腹状態でしたが、スイカ、そしてケーキもしっかり食べていました! ![]() ![]() 宮城県気仙沼の『第十八共徳丸』は東日本大震災の象徴として残されるかと思っていましたが解体が決まっているようですね! 私の親父が博多で乗っていた漁船も「第一共徳丸」で同じ船の名前でした!偶然でしょうが此の船を見るたびに親父の事を思い出させて頂いていました。 ![]() ![]() ![]() 津波で打ち上げられた船は本来の自分の居場所ではないところで、観光客相手に仕事をする姿は私も見たくはありませんでした! 出来る事なら港に帰してあげたいのですが・・・・ 8月9日は長崎の原爆記念日でした、8月は親父の誕生月でもありますが、暑い夏場は魚の漁も夏休み期間で何時も熱闘甲子園の高校野球を見ながら親父から原爆や放射能の話を聴かせてもらっていました。 特にビキニ沖の第五福竜丸の話は同じ漁師として厳しい眼で原爆に対する憤りを感じていたようです。 親父の生誕100年に当たり、福島第一原発の事故処理で放射能汚染水の処理を一刻も早く解決したいものですね! 此の第十八共徳丸の解体が決まった事は残念ですが、此の船の乗組員さん達の復興復旧も急いでもらいたいものです。 そして、綺麗な海を戻してもらって海の男達に仕事場を返してもらいたいですね! 親父もきっと天国から、共徳丸の乗組員さん達を応援してくれていることでしょうね! ▲
by shinobueakira
| 2013-08-11 11:49
| 両親の思い出
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2009.12.01
2006.12.01は親父が亡くなった日です! 早いもので、もう3年が経過しました。今日、おふくろが少し親父の思い出話をし始めました。 お父さんは「自分が死ぬときは自宅で死にたい!病院で死ぬのはイヤだ!」と口癖のように言っていたから、大往生だったね!と何度もおふくろから聞く台詞ですが、仏壇の前でそのような話をしていると、今でもひょっこり「帰ったぞ!」と言って戻ってくるような気がします。 若い頃から、遠洋漁業で家には殆どいない親父だったせいもあるのでしょうが、親父の顔を余り見ることが出来なかった子供の頃の思い出がそうさせるのかもしれません。 荒海の東シナ海で李ライン付近で危険と向かい合わせの漁師の生活は、陸の人には想像も付かない過酷な生活だったようです。 自然が相手の命がけの仕事ですから、一つタイミングが合わなければ命を落とす結果になります。 一度、大量の魚を引き上げているときに、李ライン付近で拿捕されそうになった時に、とっさの判断で「網を切れ!!」と言って大量の魚と大切な網を切って、拿捕から逃れた事があると聴かされた事があります。 この、とっさの判断を下していた親父の責任感には今思うと凄い人だったんだなあと思います。 漁師が網を切るということは、とんでもない事です、親父は「網は働けば又手に入る、人(船員さん達)の命を沢山預かっていると、その家族や仲間達の命も預かっているのも同じだ!網元会社には自分が責任を取る!!」と腹を決めたらしいです。 今の政治家や官僚達に聞かせてやりたい、そして見習ってもらいたい生き方だったと思っています。 その話を聴いたのは私が中学に入る前だったので、余り良く理解は出来ていなかったのかもしれませんが、そんな親父の背中が逞しく見えていました。 人に迷惑をかけるのが一番嫌いな親父でした! 困っている人の面倒を見るのは当たり前だと思っている親父でした。 口は荒いが、心の優しい親父でした。 野球と相撲が大好きな親父でした。 そして、口数は少ないけれど、家族を一番愛してくれていた親父でした。 親父の命日に、おふくろと少しでも親父の事を思い出しながら、懐かしむ事ができるのは、おふくろが元気でいてくれるお陰ですね。 そんなおふくろも若い頃は、”緋牡丹のお龍”のような人でした。 荒っぽい若い漁師を相手に、度胸のある態度で一歩も引けを取らない仕草で治めていました。 一方では漁師の奥さん達には、着物を縫ってあげたり、身内の世話をしてあげたり、親父と同じように人の面倒見るのは当たり前のようにしていました。 来年3月にはおふくろも90歳になりますが、親父が亡くなった年齢93歳を超える事が第一目標としているようです。 何時までも元気でいて欲しいものです。 親父の命日におふくろと一緒に、親父の事を少し思い出せて良かったです。 ▲
by shinobueakira
| 2009-12-02 00:18
| 両親の思い出
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2009.11.10
NHKテレビを見ていると、大きなニュースのテロップが続けて流れた・・・・ 千葉県市川市の英国人女性遺棄事件で逃走中の市橋達也容疑者が逮捕された。 美容整形までして逃亡していたようだが、殺害された英国のご両親の執念が逮捕に繋げたのかもしれません。 次に流れたニュースが・・・森繁久弥さんの逝去でした。 ![]() 私の親父が亡くなったのは2006年12月1日(93歳)でした。 生きていれば森繁さんと同じ年齢です。 親父がなくなってから、何度か車椅子姿でテレビで見かけましたが、その度に親父のことを思い出していました。 実に良く似ているんです・・・今は亡き親父に ![]() 姿かたちも似ていますが、全体的なムードが親父ではないだろうかと思うこともありました。 『世界中に自分に似た人が3人いる』と言われますが、自分の親父にこれほど似た人は他にはいないでしょうね。 そんな思いがあるので、森繁さんには親父の分までもう少し生きていて欲しかったです・・・ 学生時代に覚えた「知床旅情」は今でも、心安らぐ歌で大好きな曲です。 散ってしまったハマナスの花を探しました! ![]() ![]() ハマナスの花は夏に咲いて秋には実をつけるバラ科の花だそうですね! ![]() 独特の森繁調で歌う『知床旅情』一生忘れられない歌です。 小学校の頃、東宝映画の社長シリーズで、三木のり平、加藤大介、小林圭樹サンたちとの底抜けに明るい映画を見て楽しませていただきました。 又、大学時代には鹿児島の親友S.K君が『銀座のスズメ』と言う歌を二人で一緒に飲むと焼酎を片手にいつも歌ってくれていました。 S.K君の歌い方が、森繁久弥氏の特徴を掴んでいて、実に心に残る歌い方をしていました。 久しぶりに彼の歌が聴きたくなりました。 96歳まで自分の人生を全うされたのだから、大往生ですね! 今度は、千の風になって、天国から時々、「知床旅情」や「銀座のスズメ」を歌って世界中に流して欲しいですね。 永い人生、お疲れ様でした。ゆっくりお休みください! 合掌。 我家の玄関先に咲いていた花を贈ります。 ![]() ![]() もし、天国で親父に逢ったら、仲間になって酒でも交わして仲良くやってください! 森繁さんと親父に篠笛稽古曲を捧げます!! 森繁久弥・作詞・作曲・・・『知床旅情』 ▲
by shinobueakira
| 2009-11-11 00:16
| 両親の思い出
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2009.08.10
8月10日(月曜日)は親父生誕96周年でした。 今日はお袋入院中の病院へ午前10時に行ってきました、院長の回診時間に合わせたものですが、昨日担当の看護師さんから、「そろそろ退院できそうですよ!、明日の回診時に院長から説明がありますからその時間に来てください」との事でした。 先月23日に入院した時は『一ヶ月は様子を見ましょう!』と言っておられましたが、本日の回診で「何時退院されても、結構ですよ!」と言われました。 お袋に確認したところ、「早い方がいい!、明日にしよう!」と言う事になりました。 明日、病院で朝食を頂いた後、退院する事にしました。 平成19年12月1日に、早朝散歩をお袋と一緒に一時間ほど楽しみ、元気だった親父がその日の夕食時に何か喉に詰まったような感じがして、洗面所に立って倒れてそのまま帰らぬ人となりました。 しかし、お袋曰く、「大往生だったから、お父さんも悔いはないよ!」と言っていたことがつい昨日のようです。 お袋が早く退院したがるのは、お盆が近づいているから、親父を迎える準備もしたいのでしょうね! 親父もお袋がいない家に帰って来ても寂しいでしょうから、親父の誕生日にお袋へのプレゼントが、この退院だったのかもしれません。 本来なら親父の誕生日なんだから、親父へプレゼントするべきなのでしょうが、親父が一番喜ぶのはお袋の健康(退院)だったのかもしれません。 明日は退院すれば、お袋に何かご馳走でも作って、皆で退院祝いでもしましょう。 93歳まで、大きな病気をすることもなく、元気だった親父は口数は少ないけれど、威厳のある存在感のある親父でした。 大好きだった、夏の高校野球も始まり、親父が帰ってくる準備は整っているようです。 姉の帰省が少し遅れて、22日の予定になったのが残念でしょうが、姉が帰ったら親父もお袋も又喜んでくれることでしょう。 ▲
by shinobueakira
| 2009-08-11 03:14
| 両親の思い出
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2008.11.30
朝から天気も良く、絶好の法事日和でした。 大阪から兄貴も帰ってきました、姉は所用で帰ってこられませんでしたが、年末には帰ってくるとのこと、従妹達と東長寺に14:00に集合し、親父の3回忌の法要を無事に済ませました。 東長寺の桜の木も枯葉とおみくじが妙に調和していました。 ![]() ![]() 15:00から博多駅南の『木曽路』で食事、親父の思い出を従兄達が懐かしく語ってくれました。 漁師の親父の漁場での秘話や厳しい仕事の内容、命を掛けた仕事は想像がつかないほど過酷な厳しいものだったようです。 そんな親父の憩いの場は家族だったようです、やはりお袋の存在が親父を癒してくれていたのでしょう。 そのお袋は気分が良かったのか、手酌で日本酒をお猪口で4~5杯美味しそうに飲んでいました。 ![]() 私は運転手ですから、ウーロン茶です・・・トホホ 昨日バスケのOB会でしっかり飲んでいましたから、連日のお酒は体に良くないでしょう・・・ その代わり料理は沢山頂きました。 ![]() ![]() ![]() ![]() メインは和牛のほう葉焼で柔らかくていいお肉でした!! 肉はあまり食べないお袋もペロリと平らげていました。 「料理の量が丁度いいね!」と言いながら殆どの料理を完食でした!! ![]() ![]() ![]() 最後はデザートのシャーベットも食べて、「美味しかったね!」 家に帰ってきて、先日、K.M君が宇都宮から帰福の際とらやの羊羹をお土産に頂いていましたので、お袋に「羊羹食べる?」と聞くと「食べるよ!」 この食欲は異常?かも知れませんが、元気で美味しいものを感謝しながら美味しくいただけるのは幸せな事ですね! 親父に感謝の一日でした。 ▲
by shinobueakira
| 2008-12-01 11:01
| 両親の思い出
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2007.12.15
12月1日(土曜)は親父の命日でした。 東長寺で11時からお経を上げて頂き、一周忌の法事も無事に終えることができました。 ![]() 千葉から姉が、大阪から兄貴も帰って来ました、久しぶりに家族全員が揃いました。 早いもので、昨年の会社の忘年会の日に突然他界しましたが、あっという間に一年が過ぎてしまいました。 残されたお袋のことを心配していましたが、案外落ち着いていました。 親父が生きている時は親父の世話で好きなことも余り出来なかったようですが、最近はデイケアサービスに出かけて刺し子や習字を習ったりして元気にやっています。 一年前にお世話になった東長寺の住職さんのお経を聞いていると、不思議な感覚が親父を思い出せてくれました。 親父には悪いけど、法事が終わると、皆で博多駅南の『木曽路』で食事をすることになっていました。 本来は精進料理なんでしょうが、季節ガラふぐ刺し、お寿司を頂き、 ![]() ![]() メインは牛シャブシャブを腹いっぱい食べてきました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 親父が生きている時に食べさせてあげたかったです! お袋も普段は殆ど肉は食べないのですが、この肉は美味しかったからでしょうが、凄い食欲で皆に負けないように食べていました。 この店の菜箸は私が作っている菜箸と同じで孟宗竹の菜箸でした! お袋も姉も、私が作る菜箸のほうが掴みやすいと言ってました! ![]() その話を聴いて、従姉のK.Oさんから「アッチャン!菜箸を買ったばかりだけど自分にも作っちゃらんね?」と注文がありました。 年末、忙しくなりますが菜箸の製作に取り掛かります。 親父が一周忌のお礼に、皆に美味しい昼食をプレゼントしてくれたようです!! ▲
by shinobueakira
| 2007-12-15 15:37
| 両親の思い出
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2007.05.26
親父が亡くなって半年が過ぎましたが、親父の船に乗っていた“クンチャン”が焼酎を片手に親父に会いに来てくれた。 クンチャンも67歳になったそうですが、親父の船で働いていた頃のクンチャンは、若い漁師達の中でも一番力が強く、親父に可愛がられていました。 『今日は親っさんと一緒に酒を飲みたくて、やって来ました!!』と言って、先ずは親父の仏壇に線香を上げて、親父との昔話を色々と語り始めました。 親父の船に乗せてもらったお陰で、どんな船に乗っても、自信があったらしく、67歳になった今年、漁師を辞めて、市の港湾の清掃の仕事を始めたそうです。 その報告をすると同時に、親父と一緒に酒が飲みたかったようでした。 中学を卒業して以来、づっと親父の船に乗り、漁師を続けてきたクンチャンも67歳になり、身体は少し小さくなったように見えましたが、手のひらは分厚く、流石に漁師の手をしていました。 「親父の代わりは出来ないけれど、酒ぐらいなら一緒に飲めるよ!!」と言って、一緒に飲みました。「船に乗っている時は怖い親父だったけれど、酒の飲み方も親っさんに教えてもらったし、色々お世話になった、今こうして生きていられるのは親っさんのお陰で、時々思い出しては一緒に飲みたくなるとよ』と言って、親父の写真を見ながら、涙を浮かべて、グラスを傾けていました。若い頃の写真を持ってきて、あの時はこうだった、と懐かしそうに語り、親父の遺影に語りかけるクンチャンの姿は私がガキの頃に見ていた強く逞しい姿ではなく、優しい親父になった姿でした。 そして気分が良かったのか、かなりの量を飲んで、色々な事を話してくれました。クンチャンは親父が船をおりてから、日本全国、漁師をして廻ってきたみたいで、先月までは北海道でイカ漁に出ていたそうです。 東南アジア諸国にも何度も行って若い頃は派手に飲み歩き、遊びも半端ではなかったそうです。 何時も親父の事が、頭から離れたことはなかったようで、時間があれば時々会いに来てくれていました。 死んでしまった親父と今でも一緒に飲みたいと言って、訪ねて来てくれる人がいるなんて、親父も幸せな人だと思いました。 クンチャン有難う・・・・何時でも親父と一緒に飲んでやってください!! ▲
by shinobueakira
| 2007-05-28 00:04
| 両親の思い出
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2007.03.18
今日は彼岸の入りですね、 親父が亡くなって初めてのお彼岸ですから『初彼岸』です!! ![]() 春分の日の前後3日間、秋分の日の前後3日間、年に二回のお彼岸がありますが、春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇り真西へ沈むことから、西方極楽浄土の意味もあり、日本特有の仏事らしい。 此岸と彼岸 此岸とは現在我々が住んでいるこの世界のことで、煩悩と欲にまみれた世界です。様々な耐え忍ばなければならないこの世界をサンスクリット語でサハーと言い、忍土と言う意味で、中国語では「娑婆」と書き、世間の事を「シャバ」と言うのは此処からきているそうです。 彼岸とは釈迦が『彼岸に渡れ』と説いた様に、人々が煩悩や欲から開放された世界で、サンスクリット語で「パーラム」と言い、渡る事は「イター」、これを合わせると「パーラミター」となります。般若心経の一節『波羅密陀』になるそうです。 昨日、お彼岸の入りにあわせて、ダンスの先生からお袋宛に素敵なお供え物のお菓子が送られてきました。 ![]() ![]() ![]() E.I 先生には何時もお袋のことまで、気を遣っていただき感謝の気持ちで一杯です。 時々お袋とも親しく話をしてもらっているので、お袋のほうも感謝しているようです。 親父もこのお供え物はきっと喜んでくれていることだと思います。 昨日、お袋はデイケアの日で又半日楽しんできていたようです。子供のような作品を造っていました。 ![]() この御菓子と何処か感じが似ているようですが・・・・・ ![]() 下の作品はお袋が裁縫を教えていたときの生徒さんの作品だそうです。 ![]() ▲
by shinobueakira
| 2007-03-18 02:38
| 両親の思い出
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